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多気城跡

多気城は、平安時代末から下野国河内郡の宇都宮城を本城とする、名族宇都宮氏の出城であり、領地の西側を守る重要拠点でした。

戦国の世に思いを巡らせ、城跡地を訪れてみてはいかがでしょうか?

多気城跡について

多気城は標高377mの多気山全体を城郭とした関東地方を代表する大規模な山城です。
しかし、この多気城がいつ築かれ、どのような沿革を持った城であるかなどはよくわかっていません。
そこで、推測を含めて多気城の築かれた経緯を、時代背景を踏まえて少し記してみます。

多気城は、平安時代末から下野国河内郡の宇都宮城を本城とする、名族宇都宮氏の出城であり、領地の西側を守る重要拠点に位置しています。

その築城は、記録によると天正4年(1576)の2月3日から25日までと読み取れる文章がありますが、こんなに短期間にできるわけがなくそのままでは信用できません。

しかし、この年までに徐々に多気城を堅固な山城として拡大しつつ築いてきた宇都宮市が、23日間に家臣団や周辺の農民などを集めて、総力をあげこの城を完成したと解することはできます。
この観点で多気城を見ますと、次のことが言えると思います。

多気城の成り立ち

宇都宮氏は初代と言われる宗円(そうえん)から8代貞綱(さだつな)に至るまでの約300年間にも盛衰や危機がありましたが、一族が下野国はもちろん、その周辺にも根を下ろし、領地内は一応平穏な時期を送ったと言えます。
しかし、9代公綱(きんつな)の時代は、南北朝の争乱にまともに巻き込まれ、宇都宮市は南朝方についたり、北朝方についたりしなければ一族の安泰を図れない厳しいものでした。

したがって宇都宮氏の当主公綱が関西方面で南朝方について戦ったにもかかわらず、下野国の宇都宮氏の東方面に位置する益子城、飛山城(とびやまじょう)等の出城が次々と南朝方に攻撃され、一時落城する事態にもなったのです。
そこで、宇都宮氏は支配領地を守るためその周辺の出城や砦(とりで)・物見台をより堅固なものとする必要があったと推測できます。
これば多気山の北約3㎞にある南乞山(みなみごいやま・標高340m)の山頂付近一帯に物見台跡と考えられる遺跡があり、周囲を遠望できる山頂や台地の などには、規模の差異があったとしても、少なくとも見張所が存在したと考えるのが適当だと思います。

したがって、西方に巨大な的が現れない時期までは、多気山には見張所ぐらいしか存在しなかったと思います。
その後、南北朝期からいわゆる砦・要塞的な構えとなり、室町時代から応仁の乱を経て戦国時代を迎えて、より出城の形勢が整ったと考えられます。そして、ついに多気城は、慶長2年(1597)豊臣秀吉によって宇都宮氏が滅ぶまで続いたのだと思います。

天正4年は武田勝頼(たけだかつより)が織田・徳川連合軍と長篠の戦いで大敗した翌年であり、北関東を手中に納めようとして、武田・上杉・北条の三氏がしのぎを削っており、武田氏がまず脱落した時期にあたります。
したがって、 上杉氏として常陸の佐竹氏と行動を共にしていた宇都宮氏は、ほぼ支配地を接する小田原の北条氏が当面の敵となり、これに備えるために多気城を充実させる必然性が出てくることになると考えられます。

領地を守り一族の安全を図ることがいかに大変だったかは、宇都宮氏が天正8年(1580)に天下の統一者として有力になりつつあった織田信長に名馬を献上し、信仰を結んでいることからもわかります。
しかし大勢力とはいえない宇都宮氏は、22代国綱(くにつな)に至って豊臣秀吉の小田原征伐・朝鮮半島出兵に参加し、秀吉に一時は厚遇されます。
しかし、秀吉の家臣との対立や、領地を巡る紛争を原因として、大きな時代の流れの中で滅亡してしまい、多気城も廃城となり、今日を迎えることになるわけです。

多気城跡発掘調査の概要

調査地区 宇都宮市田下町725-2他
通称灯籠先(とうろうさき)付近
調査原因 林道東多気城の建設
調査面積 約500㎡。多気城跡の総面積1,300,000㎡
調査期間 平成3年10月~12月
確認 堀(幅8m 深さ6mの薬研掘[やげんぼり])
土塀(幅6m 高さ3mで内側に三段の石積)
柱穴(径30m 深さ60㎝。出入口の門に関連したものか)